12/13/2011

詩的表現

先頃の話。
運良くチケットが取れた夢の競演
ゲーリー・スナイダーと谷川俊太郎のポエトリーリーディング。


































生きた言葉の力は強烈だった。
誘ってくれたじゅんぺーさんありがとうございやす。



今回、そんな感性を刺激する作品群の中に1つ
理性に問いかけるような作品があったので取り上げてみたい。
                              

詩の擁護又は何故小説はつまらないか 谷川俊太郎

初雪の浅のようなメモ帳の白い画面を
MS明朝の足跡で蹴散らしていくのは私じゃない
そんなのは小説のやること
詩しか書けなくてほんとによかった

小説は真剣に悩んでいるらしい
女に買ったばかりの無印のバッグをもたせようか
それとも母の遺品のグッチのバッグをもたせようか
そこから際限のない物語が始まるんだ
こんぐらかった抑圧と愛と憎しみの
やれやれ

詩はときに我を忘れてふんわり空に浮かぶ
小説はそんな詩を薄情者め世間知らずめと罵る
のも分からないではないけれど

小説は人間を何百頁もの言葉の檻に閉じこめた上で
抜け穴を掘らせようとする
だが首尾よく掘り抜いたその先がどこかと言えば、
子どものころ住んでいた路地の奥さ

そこにのほほんと詩が立ってるってわけ
柿の木なんぞといっしょに
ごめんね

人間の業を描くのが小説の仕事
人間に野放図な喜びをもたらすのが詩の仕事

小説の歩く道は曲がりくねって世間に通じ
詩がスキップする道は真っ直ぐ地平を越えて行く
どっちも飢えた子どもを腹いっぱいにしてやれないが
少なくとも詩は世界を怨んじゃいない
そよ風の幸せが腑に落ちているから
言葉を失ってもこわくない

小説が魂の出口を探して業を煮やしてる間に
宇宙も古靴も区別しない呆けた声で歌いながら
祖霊に口伝えされた調べに乗って詩は晴れ晴れとワープする
人類が亡びないですむアサッテの方角へ
                              


これを聴き 嗚呼なるほどと 一人うなずく


氏はこの詩に対して
「小説が書けない事に対する言い訳」
なんて言っていたけれど
いやいやそんな事はではない
これは氏の詩人としての誇りなのだろうと。
そして氏からそんな詩を聴けた事が嬉しかった。

その心はというと、詩の内容からは少し話がそれるけれど
思うに自分は昔から、侘び寂びというか簡潔で質素なものが好きで、
長たらしいものや、くどいものを嫌う傾向にあった。

単に集中力が無いと言われればそれまでなのだが、
映画を観れば、
「このカットは端折ってもいいじゃないかー、2時間なんてなげーよ」とか
小説を読めば、
「今日の晩飯は昨日作ったカレーを使って……、ところでこのジョンって誰だっけ?」
とか
途中で余計な事を考え始める事が多く、とにかく中々入っていけないのである。

だから、詩のような濃縮された表現に心引かれてしまう。

結局何が言いたいんだよって感じだけれど
要するに「詩人、谷川俊太郎」が、
一途に詩のみを書き続ける理由に共感できて嬉しかったと。

自分も最近物を書くのを頼まれる事が多少なりともあるのだけれど
そういった点、教訓にしていきたいなと。
文才も無いのにグダグダ野暮な事言っていられないなと。

まあもう十分グダグダだけど。